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事前調査の分担


・食文化 寿司 マナー など
   
 大塚君・・・紹介
 
 柴崎さん・・・クイズ

・メディア
  
 牧野君・・・映画 (ジブリ、北野武、黒沢明
       コスプレ(はるひ、らきすた
  
 涌嶋君・・・ゲーム(Nintendo、SONY;ポケモン、マリオ、モンハン、ドラクエ、FFなど

・技術
 
 石川君・・・リニアモーターカー
        ハイブリッドカー
 
 吉田・・・木造建築などの伝統建築


先日の話し合いの結果を簡単にまとめておきました。

みなさんお忙しいと思いますが、少しずつ進めていきましょう!

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デンマーク、スウェーデンの文化について

大塚です。更新が遅れてすみませんでした。テストもようやく終わったので一応アップしときます。

すでに書かれていることかもしれませんが、スカンジナビアの説明から入りたいと思います。
スカンジナビアは北欧諸国とも呼ばれ、デンマーク、フィンランド、アイスランド、スウェーデン、ノルウェーの歴史的および文化的背景を共有する5ヶ国で構成されています。スカンジナビア5ヶ国はともに、デンマークの牧歌的な低地と広い海岸、ノルウェー、スウェーデン、フィンランドの感動的な峰、うっそうとした森、湖、アイスランドの地熱を発する土地と、様々な絶景に恵まれています。
最南端にあるスカンジナビア国のデンマークは、ヨーロッパ大陸とスカンジナビア半島(フィンランド、スウェーデン、ノルウェー)をつないでいます。
デンマークはドイツと南部国境を接し、2000年に開通した全長21km(13マイル)の橋を通じてスウェーデンとつながっています。デンマークは最高地点が173m(567フィート)で、スカンジナビアで最も穏やかな景観を呈しています。フィンランドには国立公園が35箇所あり、極北部には植物が少なく空が果てしなく続く風景のある、広大な保護地が広がっています。
ノルウェーと言えばフィヨルドです。目がくらむほど険しい山の斜面が真っ青な湖に向かって降りています。湖の中にはユネスコ世界遺産に指定されているものもあります。息を飲むほどの眺めを楽しむには、フロム鉄道がいいそうです。
アイスランドは、ヨーロッパと北米東海岸の大西洋上の中間に存在する別世界です。アイスランドは地理学的には歴史が浅く、サートセイ島が大西洋から浮かび上がったのは、何と1963年のことです。黒砂の海岸に囲まれた東部の氷河、西部のフィヨルド、中央部の岩だらけの高地が特徴です。

スカンジナビアといえばオーロラも気になるところですよね。日食が雨天で見られなかった分、オーロラを代わりに見たいところです。この壮観な光のショーは、フィンランド、スウェーデン、ノルウェー、アイスランドの北極域で、通常9月から10月までと3月から4月までの間、晴れた夜に見ることができるそうで、晴れるといいですね~。石川君の話によると去年は飛行機の中から見れたそうですよ。


さて、文化の話に移るわけですが、北欧の料理がすごく楽しみなので、北欧の食文化について少し書いておこうと思います。

スカンジナビア全体に言えることですが、海鮮料理が結構多いそうです。白人に対して肉食中心というイメージがあったので意外でした。
スカンジナビアというとヴァイキングという海賊が有名です。一時、ものすごい勢力を誇っていたとか。世はまさに大海賊時代だったわけです。つまりそれほど海路が重要視されていたということですね。確かにスカンジナビアを見ると国のほとんどが海に面してますね。海路を安全に航海する技術の発達に伴って漁獲も自然と増えていったのだと思います。

魚介料理で有名なものとしてグラブラックスという料理があります。

新しい画像

グラブラックス(スウェーデン語・デンマーク語:gravlax / gravad lax、ノルウェー語:gravlaks、フィンランド語:graavilohi、エストニア語:graavilõhe、アイスランド語:graflax)は、スカンジナビアの魚料理のひとつ。グラブラクスとも。生の鮭を塩・砂糖・ディル(香草)に漬けたものを薄く切り、ホヴメスタルソース(hovmästarsås)またはグラヴラクスソース(gravlaxsås)というディルとマスタードのソースをかけ、パンに載せたりゆでたジャガイモに添えたりして食べるものである。主に前菜として食べられる。
この料理の起源は中世にさかのぼる。漁師が鮭を塩漬けにし、満潮時の海面よりも高い砂浜に埋めて軽く発酵させたものが元になっている。グラブラックスとは、スカンジナビア諸語の「grav」(地面に穴を掘る、英語の"grave"に同じ)と「lax」(laksとも、鮭のこと)の合成語で、文字通りにいえば「地面に埋めた鮭」である。
今日ではグラブラックスを作るのに発酵は行わない。鮭を地面に埋める代わりに塩・砂糖・ディルの中に「埋め」、数日間キュアリング(熟成)させる。鮭が熟成した後、鮭から出た水分に塩などが溶けてできた濃い塩水は、スカンジナビア料理のソースの素材として使われる[1]。こうしたキュアリングは他の脂分の多い魚でも行われるが、鮭がもっとも一般的である。またマリネをする際に、フェンネルなどの香草やペルノ(リキュール)、コショウ、コリアンダーシード、ホースラディッシュなども使われる。スモークサーモンが誤ってグラブラックスと呼ばれることもある。


もう見ただけで食欲をそそられます。画像からもわかるように、とってもおしゃれな料理だと思います。洋風料理は色彩が鮮やかな料理が多いですね。

食とは少し離れるのかもしれませんが、大人の飲み物についてちょこっと書いておきます。アクアビットというお酒がこれまた有名どころらしいです。下に貼り付けた画像もこれまた雰囲気出してますねw
新しい画像 (1)

リニエ
15世紀の『ストックホルム市財政報告書』にアクアビットに関する記録が見られ、これが現存する最古のアクアビットの記録といわれている。これによれば、当時のアクアビットはヨーロッパ大陸から輸入したワインを蒸留して製造していたとあり、現代では一般にブランデーとよばれるものであったと想像できる。その後、16世紀末に穀物が使われるようになり、18世紀には新大陸産のジャガイモが主な原料となって、現代と同様のアクアビットが生産されるようになった。
なお、北ヨーロッパにジャガイモが輸入されたのは、1756年にドイツで起こった7年戦争後であると言われる。戦争によってジャガイモが流入したことから、スウェーデンでは7年戦争は「ジャガイモ戦争」とも呼ばれている。おそらくこの戦争以後、ジャガイモが主原料のアクアビットが北ヨーロッパで主流になったと思われる。
アクアビットの語源は、ラテン語のAquavitaeであり、ゲール語の「ウイスキー」、ロシア語の「ウォッカ」と同様に「生命の水」の意である。
サントリーが販売していた「アクアヴィーテ」は、モルトウイスキーであり、アクアヴィットとは関係ない。



先ほどのグラブラックスでもジャガイモと一緒に食べることがあるそうですが、アクアビットも周材料がジャガイモです。スカンジナビアではジャガイモが大人気なのでしょうか。

今回訪れる場所ではないのですが、スウェーデンにおいて料理は肉と魚の割合が半々で、クリームソースあえみたいなものが多く、付け合わせに必ずジャガイモがついてくるとか。さらに、スウェーデンの人はジャガイモにはうるさく、肉料理と魚料理で違う品種を使うらしいです。
すごいこだわりようですね。自分ではジャガイモの品種とかの区別が到底できません。

食文化とは関係ないですが、少し面白い話を見つけたので貼り付けておきます。

(ここから)
私が一番デンマークで文化の違いを感じるのは、意外かもしれませんがスーパーへ行った時です。自分が日本のスーパーで働いたことがあるので尚更そう感じるのかもしれませんが、とにかくみな、やる気&愛想がない!
以前のワーホリで滞在していたオーストラリアとどうしても比べてしまうのですが、オースの店員はやる気がなくても一応レジでは「元気?」などと一声かけてくれていたのに、デンマークでは一声どころか無言でニコリともしません。商品をスキャンするのもダルそう!座ってレジが打てるだけましじゃないか?!と突っ込みたくなります(笑)
商品を補充するのも、バサーっ!と賞味期限関係なく一気に箱ごと流し入れたり、空の箱を床にポイポイ捨てるのは当たり前、挙げ句それを足でポーン!と蹴って道を作ったりするのですから呆気にとられてしまいます。ある店ではipodで音楽を聞きながら、ガムをかんで同僚と話をしている店員を見ました。日本なら即クビになりそうですが、こちらでは特に問題にもならないようで…
ただ、全部が全部こういう店ではありません。どうも私が思うに、スーパーなら商品単価が安い店ほど態度も適当になっていくような気がします…(例えばちょっと高級なIrmaだと、レジで少しはニッコリしてくれる)。それでもやはり日常的にはNettoなどの安いスーパーへお世話になるので、こういう店員を普通に見かけるようになるのですが。
日本のように「お客様は神様だ」と敬えなどとは思いませんが、レジで慣れないお金を片手にもたもたしてしまって、店員に嫌な顔をされるのはやはり気が悪いです。もう少し愛想あってもいいんじゃないか?と愚痴ると、デンマーク人曰く「スーパーはセルフサービスだ。サービス精神を求めるのならそれ相応のお金を払うのがここデンマークでは当たり前。大体スーパーの時給程度でやる気が出る人間自体いない」と言い返されてしまいました。それでも最低賃金、1000円近くあるはずなのに…!
という訳で、デンマーク人にサービス精神を求めてはいけないということがわかりました。あくまでも客と店員は対等、需要と供給を補い合っているという訳です。
ところがお隣のスウェーデンへ行ってみると、サービス精神の高いことと言ったら!店員さんはみな愛想がよく、道端の通行人やバスの運転手も旅行者にはとても優しく、同じ見た目なのに国が違うとここまで違うの?と気質の違いに驚かされます。
言うまでもなく、買い物はスウェーデンでした方がいろんな面で、お得です!(物価も安いし)ちなみにデンマークから一番近いスウェーデンのマルメにはコペンハーゲンから電車で30分足らず。気軽に隣国へ買い物しに行けるというのは、ヨーロッパならではの利点ですね!
(ここまで)


確かに日本ではお客様は神様だという言葉があるくらいお客さんを大切にしますね。それほど販売競争が厳しいということかもしれませんが。裕福で競争がないということがすべていい結果に結び付くということではないようです。ある程度の厳しさも必要ということでしょうか。でも、これもお国柄だと思います。

北欧の歴史??その2

すいません。コメント書く前にEnter押してしまいました。アップした二つ目のはwikiのスウェーデンの歴史の切り取りです。これまたてきとうでごめんなさい。この下はフィンランドの歴史(これまたwiki)です。



フィンランドの歴史

先史時代

フィンランド人登場
最新の学説としては紀元前3000年に、この地にフィン人とサーミ人の共通の祖先が櫛目式土器文化を伴い移住して来たというものである。北ゲルマン語群との交流は既にこの頃から始まっている。しかし青銅器時代にはフィンランドから人影が極端に減少する。鉄器時代に入ると農業を営み始めたフィン人とトナカイの牧畜に特化したサーミ人(サーミ人も、マジャル人もフィノ・ウゴル族であるが共に意思の疎通は出来ない。フィンランド人とエストニア人とは今でも言葉が通じ合う)に分化し始める。サーミ人はアスベスト土器、繊維土器といった特有の文化を築いた。
民族移動時代 [編集]
ゲルマン民族の大移動は前期民族移動時代、ヴァイキング時代は後期民族移動時代と区分される。後期民族移動時代には錫製装飾品で有名な「サーミの金属舞納遺構」がある。フィン人は800年までにはスオミ族、ハミ族、カレリア族の各部族を成立させている。フィン人(フィンランド人)もサーミ人も政治的に1つにまとまって国を作る事はなく、フィン人の各部族内ですら分裂したままであった。この頃の生活は夏の農業(大麦、ライ麦)と冬の狩猟(テン、リス、ミンク)であった。後者の動物の毛皮は交易品として重用された。
属州フィンランド

北方十字軍


北方十字軍の進路。赤1150年スオミ族に対する制圧・緑1238年1239年ハミ族に対する制圧・青1293年-1294年カレリア族に対する制圧
1155年、西隣のスウェーデン人が、フィンランド人を併合し属州とした(北方十字軍)。これによって、フィンランド人にキリスト教(カトリック)がもたらされたが、スウェーデン人とノヴゴロド人(正教会)の戦争が繰り返され、その度に、フィンランド人は矢面に立たされ大きな犠牲を強いられてきた。領土の確定で一定の安定を見た後、フィンランド人の地主、僧侶、官僚たちの自治集会が成立し、スウェーデン国王選出権を与えられた。彼らはスウェーデン人に同化されたが、古き良きフィンランド人の文化は、フィンランド人の農民の間に遺された。この時代にスウェーデンから移住したスウェーデン人たちは、スウェーデン系フィンランド人と呼ばれ、19世紀初頭まで続く「スウェーデン=フィンランド」を形成した。
やがてカルマル同盟(1397年)が成立するとスウェーデン人からの圧力は減ったが、デンマーク人による重税にフィンランド人は苦しむことになる。
バルト帝国 [編集]
スウェーデン人の独立(1523年)によりデンマーク人の勢力は後退した。スウェーデン人が独立した時、フィンランド人が独立を望まずスウェーデン人の属国になることを選んだ背景には、タタールのくびきを脱したロシア人(ロシア帝国)やポーランド人(ポーランド・リトアニア連合)などの外圧から逃れる為という、止むを得ない実情があったのである。しかし、スウェーデン人がバルト帝国の建設へと邁進することは、フィンランド人にとっては、はた迷惑以外何ものでもなかったであろう。この時代に何らかの意義を見出すとすれば、「フィンランド」が拡大したことである。基本的にバルト帝国の東方国境が後の独立時のフィン・ソ国境となる。フィンランド人の兵士は、三十年戦争で勇猛さを発揮し、「ポーランド軍にはタタール人(コサック)がいる様に、スウェーデン軍にはフィン人がいる」と言われ、恐れられたと言う。
フィンランド人はスウェーデン人と共にプロテスタントに改宗したが、17世紀後半から18世紀前半にかけてフィンランド人は、相次ぐ凶作と悪疫、スウェーデン人による失政及び長き戦争のために大打撃を受ける。いわゆる「大いなる神の怒りの時代」である。棍棒戦争と呼ばれる農民一揆による内乱も起き、破滅的な打撃を受ける。しかし18世紀初頭の大北方戦争によりスウェーデン人がロシア人に屈服すると、再びロシア人の勢力がフィンランド人にまとわり着き出す事になる。18世紀後半には、ロシア人の協力を得て、フィンランド人の独立を画策する、アニアーラ事件が起きる。しかし現代のフィンランドの歴史家は、これをロシア帝国の策略とする、愚かな犯罪的反乱予備罪だったと決定付けている。しかしこれはフィンランド人のナショナリズムの現われの一端ではあった。フィンランド人はその歴史上地理的に緩衝地帯としての役割を宿命付けられて来た。中世の初頭から冷戦終結後までフィンランド人は、スウェーデン人(西方教会、パン=ゲルマン主義、資本主義)とロシア(正教会、汎スラブ主義、共産主義)との間の緩衝国であり、東西交流の窓口であった。
フィンランド大公国

ナショナリズム
1807年、ロシア皇帝アレクサンドル1世はティルジット条約においてナポレオンの対英大陸封鎖(大陸封鎖令)に参加する見返りとして、フィンランド領の獲得を承認させた。この為、1808年ロシア帝国はスウェーデン政府に宣戦布告(フィンランド戦争)、既にフィンランド人にはスウェーデン人に対する不満が渦巻いていたが、フィンランド軍は孤軍奮闘した。しかしスウェーデン軍は、ロシア軍に大敗すると算を乱して逃亡し、翌年の1809年春にフィンランドを全域を制圧した(フレデリクスハムン、ハミナの和平)。アレクサンドル1世は、フィンランド大公となり、フィンランドを立憲君主制の大公国とした。内政はフィンランド人が担当し、公用語はスウェーデン語、後に待望のフィンランド語が追加された。開明的な啓蒙君主であったロシア皇帝アレクサンドル2世の下、「自由の時代」を謳歌し、フィンランド人の民族的基礎が着々と築かれていった。今でもフィンランド人はアレクサンドル2世を敬愛しており、その銅像とちなんで名付けられたアレクサンドル通りとが有名である。しかし文化も宗教も異質なロシア人に支配される事によって初めて自らのアイデンティティの問題に直面したのである。そして民族としての独立した精神は名実共に確立し、フィンランド文化も頂点に達するのである。民族叙事詩カレワラが出版されたのは1835年のことであった。「我々はスウェーデン人には戻れない。しかしロシア人にもなれない。そうだフィンランド人でいこう(Ruotsalaisia emme enää ole, venäläisiksi emme voi tulla; meidän täytyy olla suomalaisia.) 」と謳われたのはこの頃である。1848年のヨーロッパ革命(1848年革命)の年、デンマークで絶対王政は崩壊し、民主主義が成立すると、フィンランド人の間でも学生を中心に民主化運動とナショナリズムは高まりをみせ、学祭で「我等の地」が歌い上げられる。民主主義が浸透しつつある西側、絶対王政を崩さない東側という対比の下、フィンランド人の間に北欧への復帰の世論が強まっていくことにもなった(汎スカンディナヴィア主義)。
ロシア化政策
ロシアはアレクサンドル2世が暗殺された後、次第に反動的になっていった。特に1871年に成立したドイツ帝国に動揺したロシアは、中央集権化を進めるために帝国内の各民族への統制を強めていくことになる。1894年の露仏同盟により露独関係の亀裂は決定的となり、ロシアはきたるべき対独戦争の準備のため強権化をエスカレートさせていった。こうした背景により、フィンランド人の自治は剥奪された。フィンランド語も禁止され、公用語としてロシア語が強要された。 20世紀に入るとロシア帝国内で各民族の民族意識が高まり帝国内は混乱を極めた。フィンランド人も民族意識に目ざめ、ロシアへの反発を強めて行く。そして日露戦争のさなかの1904年、フィンランド総督の暗殺という事態に至る[1]。日露戦争終了後、第一次ロシア革命が起こり、ロシア皇帝ニコライ2世はフィンランドのロシア化政策を撤回した。フィンランドは独立こそ果たせなかったが民主的な憲法を制定し、普通選挙法、女性参政権などが実現、総選挙により議院内閣制に基づく政府が発足する。選挙権拡大により、社民党が躍進した。しかし、世界は第一次世界大戦に至る緊迫感に包まれ、ロシアは再びフィンランドを弾圧し、政府は解散され憲法は停止される。自治と独立を望むフィンランド人は息の根を止められたかに見えた。
この時代、フィンランドとロシアの政治的緊張は目に見えて高まったが、経済的にはロシア帝国を輸出先としてフィンランドは経済成長を遂げた。特に西側の最新技術を元に工業化を推進し、ロシア帝国に輸出する東西貿易の窓口として国力を充実させたのである。こうした発展は、後の独立のための基盤になった。
フィンランド共和国

二度の世界大戦
第一次世界大戦では、フィンランドはロシア軍の前哨基地となったが、職業軍人を除いて参戦する義務を負わず、国力を温存させた。1917年にロシア革命によりロシア帝政が倒されると、社民党は政権を奪取し、憲法を復活させた。ケレンスキーとの暗闘の後、社民党は下野し、有産階級の諸政党の連立政権が引き継いだ。ボリシェヴィキとの交渉が成立し、フィンランド人は独立を宣言した。しかし、労働者階級はソビエト連邦への参加を求めて蜂起し、内戦に突入する。両陣営の勢力は互角であり、労働者階級は都市部とくにヘルシンキに集中していた。1918年、赤軍がヘルシンキなど南部地域を掌握したため、白軍はヴァーサへ逃れたが、ここで政府はマンネルヘイムを指揮官に任命し、ドイツ人・スウェーデン人も義勇軍を送った。白衛軍は勢力を取り戻し、タンペレの決戦で白軍が勝利した。余勢を駆って白軍はカレワラ発祥地、カレリアに出兵。この是非を巡り連立政権は王党派と共和派に分裂した。王党派(保守党、スウェーデン党)は、ドイツ帝国に接近して王国の樹立を画策、ヴィルヘルム2世の義弟ヘッセン・カッセル方伯フリードリヒ・カールを国王に選出しフィンランド王国を成立させた。しかしドイツは第一次世界大戦に敗れ、ドイツ革命によって帝政が崩壊。総選挙で共和派(農民党、自由党)と社民党が大勝すると、フィンランドは共和国としてパリ講和会議で認知された(ヨーロッパにおける民族自決)。
第二次世界大戦では、独ソ不可侵条約を締結したロシア人(ソビエト連邦)と2度に渡って戦い、その結果、カレリア地峡を失い、多額の賠償金を負った(ソ芬戦争。第1次は冬戦争、第2次は継続戦争と呼ばれる)。この時フィンランド人は、スウェーデン人に助力を求めたが、中立主義をとられ、止む無くドイツ第三帝国に接近した。この事がフィンランド人をしてパンドラの箱となった。第二次世界大戦でのドイツ人の敗北と同じくしてフィンランド人も敗戦国となり、ロシア人から戦争犯罪に問われる事になった。
冷戦と現代
ロシア人からの圧力に屈し、マーシャル・プランを拒絶せざるを得なかったが、戦後のフィンランド人は独自の努力と中立国スウェーデン人からの援助によって復興へ邁進する事となった。1952年、ヘルシンキオリンピックを開催。同年に対ソ賠償を完済し、財政的な負荷がなくなったため、急速に福祉国家建設へ邁進することとなる。外交面においては冷戦時代は、北大西洋条約機構 (NATO)にもワルシャワ条約機構にも加盟せず、中立を貫きノルディックバランスを構成する。しかし共産主義勢力のクーデター騒ぎやロシア人の度重なる内政干渉に動揺し、国内政情に不安定な要素を提供することになった。そのため、長い間対ソ批判はタブー化された。政府もロシア人の干渉を未然に防ぐために親ソとも言える様な言動を繰り返し、かくして「フィンランド化」という言葉まで生まれた。しかしそれは、フィンランド人自身の独立維持への凄まじいまでの努力の結果であった。賠償金の支払いに工業製品の代物弁済を求められたフィンランド人であったが、それが逆にフィンランド人を先進国へと脱皮させるきっかけにもなった。また、その賠償のための搬送ルートを東側への拡販ルートとして流用し、東西貿易の窓口として莫大な利益を上げることとなる。福祉国家戦略の優越性と相まって、人口1人当たりGDPは、他の北欧諸国とともに世界一になった。
その後冷戦の終わりと共に囚われの鎖から解き放たれたが、既にロシア人は最大の貿易相手国であり、経済的なパートナーとしてなくてはならない存在であった。それゆえソビエト連邦崩壊後、政治的な自由とは裏腹に経済的な苦境に見舞われた。GDPは約4割も減少し、財政赤字を増大させたのである。そのため、経済的な便益を求めて1995年にスウェーデン人と共に欧州連合に加盟した。情報通信産業に活路を見出したフィンランドは国家を挙げてIT革命に邁進し、21世紀初頭の現在、再び世界のトップグループに返り咲こうとしている。

北欧の歴史??その1

先史時代から古代
発掘調査などによれば、今のスウェーデンにおける人類の痕跡は、紀元前1万年ころに遡れる。このころには人が定住し、紀元前3000年ごろには農業を営み、青銅器を使用していたとされる。スウェーデンについての最古の記録は古代ローマの歴史家タキトゥスの「ゲルマニア」に書かれた、「スイーオネース」の記録であろうと考えられている。タキトゥスによれば彼らスイーオネースはバルト海に浮かぶ島(当時スカンジナビア半島は島だと考えられていた)に住み、陸上戦力のみならず水軍を持ち、勢力を振るったという。
ヴァイキングの時代 [編集]
スカンジナビアには北ゲルマンの諸部族の小王国が乱立していたが、次第にスウェーデン、デンマーク、ノルウェーの3王国に収斂されて行った。彼らはローマ人やフランク王国から「北の人(「ノルマンニ」あるいは「ノルマン人」)」と呼ばれ、船団、艦隊を組織し、バルト海から北海沿岸での交易、略奪を行った。特に略奪を行うノルマンニは「ヴァイキング」と呼ばれ、9世紀にはその剽悍、野蛮を怖れられた。
彼らのなかにはデンマーク・ノルウェー・バイキングのようにアイスランドからグリーンランド、さらにアメリカ大陸に到達、植民したものもいたが、スウェーデン・ヴァイキングは主に、東方へと進出し、ドニエプル川、ヴォルガ川を遡り、東ローマ帝国やイスラム世界と交易などの接触を持った(それ以前にバルト海を掌握していた可能性もある)。またロシア平原に定住し、8世紀から11世紀までにノブゴロド公国やキエフ大公国などルーシ諸国の建国者となった。東スラヴ人側からの伝記では、彼らは「ヴァリャーグ」と呼称されているが、これがスウェーデン・ヴァイキングであるかは定かでない。少なくとも彼らがゲルマン人の一派である事は確認されている。
このようにヴァイキングとして各地に探検、植民をしてきたが、彼らの発祥の地であるスカンジナビア半島東では9世紀頃からスヴェア人の王国が建国され、自然崇拝による祭祀が営まれた。10世紀にはキリスト教が伝来し、幾分の抵抗をともないながらも受容されて行った。
統一王国の誕生とカルマル同盟 [編集]
12世紀になるとエーリク9世によるフィンランド進出(北方十字軍)が行われ、ヴァルデマール王を開祖とするフォルクンガ朝のころにはフィンランド南部を併呑した(スウェーデン=フィンランドの形成)。この十字軍は、1300年頃まで継続し、1323年にノヴゴロド公国に対してシュルッセルブルグの和議を結ぶことによって終了した。
このようなスウェーデン王国は発展していく中で、王と貴族たちの争いが激化して内部の弱体化が進んだ。1397年にはデンマークとノルウェーの摂政であるマルグレーテ1世のもとでカルマル同盟が結成され、スウェーデンはデンマークの支配を受けることになった。
デンマーク支配に対するスウェーデン人の抵抗運動は絶え間なく展開され、デンマークによる弾圧は1520年、クリスチャン2世による「ストックホルムの血浴」で極点に達した。このような弾圧に対し、スウェーデン人はグスタフ・ヴァーサを指導者として蜂起した。ハンザ同盟の助力も得て独立を勝ち取り、ヴァーサ朝が開基された。
「北方の獅子」と「北方のアレクサンドロス」 [編集]


バルト帝国の時代
ヴァーサ朝はバルト海沿岸に領土を拡大させ、グスタフ2世アドルフのころには身分制議会が置かれ、さらに重商主義政策を推進し、北アメリカのデラウェアに植民地を建設したほか(ニュースウェーデン)、各種産業を保護育成した。
グスタフ2世アドルフは「北方の獅子」とよばれ、デンマーク、ポーランド王国、ロシア帝国と争い、リガなどバルト海沿岸を征服支配、バルト海帝国を確立した。その後、1618年に始まる30年戦争には1630年にプロテスタント側に味方し介入。ポンメルンからバイエルンまで破竹の進撃をしたがリュッツェンの戦いで戦死した。国王の戦死を受けて宰相ウクセンシェルナはハイルブロン同盟の結成など画策しつつ戦争を続行し、中央ヨーロッパに進出、1648年のヴェストファーレン条約ではスウェーデンは戦勝国となった。しかしグスタフ2世アドルフの後継者クリスティーナは、この条約で西ポンメルンの獲得などに大幅な譲歩をした。
クリスティーナは政治より学問に関心があり、デカルトなどを宮廷に呼んで哲学的思惟に耽ったりした。そして財政危機などを招いて退位し、ローマで余生を過ごした。クリスティーナの退位によって、プファルツ選帝侯家の傍系プファルツ=クレーブルク家が王位に登攀した。クリスティーナの女系の従兄である初代国王カール10世は、1655年からポーランド、デンマークと戦争を起こし1661年まで続いた(北方戦争)。この時代が、スウェーデンの絶頂期とも言われている。その後、カール11世が1680年に土地改革を行って自作農を増やしたり、国力の増強に努めた。この時代、プロイセンの勃興やデンマークの復讐戦などに手を焼いたものの、バルト帝国は維持され、絶対王政が開始された。しかしスウェーデンの国力は大陸国家の範疇を出ず、植民地帝国の形成にまでは至らなかった。
1697年にカール12世が即位すると、バルト海の出口を求めるロシアのピョートル1世、デンマーク・ポーランド連合軍と1700年に始まる大北方戦争を戦った。スウェーデンはナルヴァの戦いに勝利し、カール12世は「北方のアレクサンドロス」の異名をとった。スウェーデンは一時ポーランドを傀儡国家にすることに成功するが、1709年にポルタヴァの戦いで敗北すると、カール12世はオスマン帝国に落ち延びた。劣勢は覆せず、1718年にカール12世は急死した。その妹ウルリカ・エレオノーラが即位するが、戦況はスウェーデンに不利に転じ、1721年のニスタット条約でリヴォニア、エストニア、カレリアなどバルト海沿岸の覇権を喪失した。
スウェーデンの没落 [編集]
このころからスウェーデン宮廷ではメッソナ党とハッタナ党による派閥争いが熾烈を極め、王権は弱体化し、派閥に属する貴族による議会が国政を取り仕切る「自由の時代」となった。比較的平和な時代が続き、生物学のリンネなどが活躍し、学芸が大いに発展した。しかしスウェーデンの対外的国力は低下していき、かつての「バルト海の覇者」の面影はなくなってしまった。
このようなスウェーデンの没落を憂慮したグスタフ3世はクーデターによって絶対君主制を復活させ、強力に内政を充実させ、外交ではフランス王国と提携し、エカテリーナ2世時代のロシア帝国と対抗した。グスタフ3世はスウェーデン中興の実を挙げたが、暗殺された。
その後、フランス革命が起こり、ナポレオン1世が登場すると、スウェーデンは第三次、第四次対仏大同盟に参加したが、敗北した。1809年にはフランス帝国の強制でフィンランドをロシアに譲渡することになった。この年、国王グスタフ4世が廃位され、立憲君主制に体制を改め、翌年にナポレオンの元帥ベルナドットを王太子に迎えた。後のカール14世ヨハンである。スウェーデンはナポレオン戦争において最終的には戦勝国となったが、フィンランドの奪還はかなわず、ノルウェーを得ただけであった。スウェーデンは戦勝国であったが、フィンランドやポンメルンなど、大陸側の領土を失った。しかしフランス人であるベルナドットの合理的な思考の元で、スカンディナヴィア半島の統一を幸運にも成し遂げ、以後のスウェーデンは保守主義に転じ、北欧はより一体化していく(スウェーデン=ノルウェー)。
スウェーデンの近代 [編集]


汎スカンディナヴィア主義
ナポレオン戦争後のスウェーデンは、カール14世の政策により今日の中立の芽が蒔かれたが、19世紀半ばになると、北欧全土が列強の脅威にさらされる事となり、スウェーデンを中心に汎スカンディナヴィア主義(ノルマン主義)と呼ばれる運動が、北欧諸国民の間で盛んになった。これは列強への対抗心からの北ヨーロッパ統一の機運の高まりであった。この運動を利用して、オスカル1世の大国復興を巡る駆け引きが行われたが、王権の低下と共に挫折した。
1872年に即位したオスカル2世は、汎スカンディナヴィア主義の幻想をドイツ帝国の汎ゲルマン主義と重ね合わせたが、もはや国王の統治権は形骸化しつつあり、国王による国家牽引は時代遅れであった。その後スウェーデンでは民主化が進められ、1866年には二院制議会が置かれ、さらに1908年には成人男子による普通選挙制度が導入され、1920年には労働者を支持基盤とする社会民主労働党が政権を獲得した。
ナポレオン戦争以後は戦争に直接参加しなかったため、スウェーデンには平和が到来した。学芸と科学技術が大いに発展し、探検家ヘディン、作家ストリンドベリ、経済学者ヴィクセル、ダイナマイトの発明者でノーベル賞の設立者ノーベルなどの偉人が現れた。
1905年には平和裏にノルウェーの独立を認め、さらに第一次世界大戦、第二次世界大戦でも中立を維持し、国連の第2代事務総長にハマーショルドを出すなどノルディック・バランスを維持し、NATOにも加盟しないなど、武装中立政策を貫徹した。
スウェーデンの現在 [編集]
スウェーデンが世界に誇る福祉政策は、1932年から1976年まで続いた社会民主労働党政権によって推進された。この政策は第2次世界大戦後の経済成長期にスウェーデンを世界有数の「福祉大国」にすることに成功したが、1990年代には行き詰まりを見せはじめた。1991年の総選挙で半世紀ぶりに政権交代がなされ、保守政権が誕生した。しかしこの政権は経済運営に失敗し、1994年には社会民主労働党が政権を奪還する。新政権は福祉政策の弱点であった国際金融での立場の弱さを克服するため、EUの加盟にこぎつけた(1995年)。社会民主労働党政権は、経済を順調な成長軌道に乗せ、1997年には財政再建に成功する。再建された財政でスウェーデン人は再び福祉政策を増強することを選び、現在に至っている。
内政においては、様々な問題を抱えているものの好景気を維持し、外交ではサーミ人の保護、欧州統合への参加による武装中立の放棄、イラク戦争への派兵反対など、積極的な国際活動を行って、その存在感をアピールしている。またバルト三国に対する干渉も冷戦中から行われており、冷戦後には北欧資本の輸出の中心となるなど、この地域におけるスウェーデンの影響力は現在も強い。また文化面においても、ポピュラー音楽やノーベル賞など世界的流行を発信し続けている。

北欧の歴史??その1

ワクシマです。とりあえず、wikiの内容をはっつけときます。てきとうですいません。


先史時代

約13,000年前まで、ほぼ全域にわたって氷河(氷床)に覆われ、大陸と繋がっていた。約12,000年前には世界的な温暖化をむかえて氷河溶け出して地表面が現れ、動植物とハンブルグ文化[1]の影響を受けた人々が南部に渡ってきてブローメ文化を築いた。海面や陸地の両方の上昇によりバルト氷湖が大西洋と繋がってヨルディア海となったり、元に戻ってアンキュルス湖となったりした。この時スカンディナヴィアはヨーロッパ各地と陸続きとなり、大陸北西部の広大な地域に狩猟・採集を生業とし、沿岸部では漁労も営み、季節的移動生活をしていた人々によるマウレモーセ文化が形成された。約8500年前、スカンディナヴィア半島は大陸から離れ、アンキュルス湖は今日のバルト海の原形であるリトリナ海となった。各地で多様な文化が生まれるが、なかでもフィンランドではマウレーセ文化に並行するスオムスヤルヴィ文化が長く続いた。
紀元前3000年代に、北欧南部で土器の使用が始まった。エアテポッレ文化[2]という。当時の貝塚からカキ、ムラサキガイの殻、アカシカ、ノロジカ、イノシシの骨が出土している。
紀元前2000年代に、大陸から農業が渡来し、小麦、大麦、エンマー小麦などの栽培と豚、山羊などの飼育が始まった。また、巨石文化[3]も伝わった。
紀元前2000年から前1800年頃、バルト海沿岸全域に普及した闘斧文化は、デンマークでは単葬墓文化、他の北欧では船型石斧文化と呼ばれる。スエーデン東部とゴットランドには、海獣猟を特徴とする有孔土器文化もあった。 闘斧文化に続く新石器時代後期は、石槨(せきかく)墓の時代とも呼ばれる。石剣はノルウェー沿岸部に、石槨墓はスウェーデン南部の内陸部多くみられる。住宅も建てられ、長さ10メートル近くあり、後のロングハウス[4]の原型ともいえる。 紀元前1800年頃、北欧に青銅器が到来し、大陸の影響を強く受ける。フィンランドでは、この時代の遺構・遺物は極端に少ない。デンマークでは、憤丘墓文化の影響を受け、現在15,000基もある。他の地では石積墓[5]が主流である。バルト海沿岸地域には、石の船の形に並べた船型配石墓もみられる。大陸からの影響で、やがて火葬骨が骨壺に収められるようになり、キリスト教による木棺の土葬が普及する11世紀まで、主流を占めた。


アイスランドの歴史

アイスランドは元々無人の島だった。紀元前300年頃に古代ギリシア人によって発見されていたという記録がある。古代ギリシア人のピュテアスと言う学者が、現在のノルウェー海まで航海をし、その海洋にある「トゥーレ」と言う島を発見したとされているが、これがアイスランドであるかは定かでない。中世には、ウルティマ・トゥーレと呼ばれ、アイスランドやグリーンランドの様な地域は、漠然に極地、北の果てと呼ばれ、ヨーロッパ人からは存在すら忘れ去られていた。
初めてここで越冬したのはヴァイキングのインゴルフル・アルトナソンだといわれている。このとき彼が「氷の土地」と呼んだのが国名の由来とされる。
870年頃から植民開拓が始まり、930年までにノルウェー人(ノルマン人)と、スコットランドおよびアイルランドのケルト人等が中心となり、およそ2万人が移住した。
930年に全島の調整機関として世界最古の近代議会であると言われるアルシング(オルシング、アルシンギとも言う)が創設され植民は終了した。初期のアイスランドは定住地域ごとに自治が行われ、国王の君臨する他のヨーロッパの国とは異なっていた。
985年、赤毛のエイリークがグリーンランドを発見する。
992年(実際は1000年頃)にエイリークの息子レイフ・エリクソンが北米に渡る。以後僅かながらの北米への植民が行なわれた。
10世紀後半にはアイスランドからグリーンランドへの植民が行われた。
1000年頃、オーディンを主神とするそれまで多神教(北欧神話)に代えてキリスト教を国教に定める。
13世紀にはノルウェーの介入を誘うことになる。
1241年、スノッリ・ストゥルルソン暗殺。
1262年にはノルウェーの事実上の植民地となる。
1380年にノルウェーとともにデンマークに帰属。
1550年、デンマークの強制により新教ルター派に改宗。
外国による支配、ペストの流行、飢饉、1783年のラキ火山噴火などで人口が大幅に減り、困窮状態に陥る。しかし、18世紀半ば以降さまざまな産業が興り、回復へ。
1874年に自治法が制定され、1904年自治を達成。
1918年、デンマークと元首と外交を共通にする連合国として独立。アイスランドは、わずかの期間ながらデンマークを宗主とする「アイスランド王国」となった。
第二次世界大戦中、デンマークがナチス・ドイツに占領された後イギリスが占領。その後アメリカ合衆国が統治。
1944年にデンマークから分離。同年6月17日に共和国として独立を宣言し、初代大統領にビョルンソンが選出された。
1947年、アイスランド最大の火山であるヘクラ火山が大爆発を起こし多くの死傷者を出した。この事件は当国の作曲家レイフスが曲にしている。
1958年、主に英国との間にタラ戦争勃発。アイスランドが設定した領海・漁業専管水域をめぐる争い。アイスランド側の主張がほぼ認められ、1976年までにアイスランド側の勝利で終結。
2006年、米国による国土防衛が終了し、米軍基地が閉鎖。
2008年、米国に端を発した世界金融危機のあおりを受け、主要銀行が破綻し、国有化される。カウプシング銀行は国有化後、債務不履行に陥り、国家経済は危機的状態に陥る。

北欧の歴史(デンマーク・ノルウェー)part2

こんにちは!芝です。
ついに、8月になりましたね。まだ、天気は悪いですけど。
皆さんテストで忙しいそうですね。
少しづつでも、調査が進んでいることを期待してます。

では、北欧の歴史について、今回はデンマークとノルウェーについてです。

デンマークの歴史

紀元後800年頃からヴァイキングの時代。
ヴァイキングの時代の後、
カルマル同盟が成立(デンマーク、ノルウェー、スウェーデンの同盟でデンマーク優位)
この間にデンマークが強国として成長し、スウェーデンを1448年~1523年まで支配下
ノルウェーを1814年まで支配下とした。

スウェーデン独立後はデンマーク=ノルウェー二重王国となったが、ナポレオン戦争時にフランスと同盟していたために敗北、イギリス・スウェーデンの攻撃に屈した。その後1814年にノルウェーを失い、同盟は完全に消滅。(アイスランドやグリーンランドはデンマーク領として残された)

その後、穀物生産農業から酪農への転換に成功し、さらには、産業革命による首都の都市化により、近代国家への道を歩み出すことに成功。

1920年にスリースウィ(地域)が返還され、現在の国家の形となる。
第二次世界大戦中はドイツに支配されたが国境線は維持。
戦後、NATOやEC(後のEU)に加盟。
現在は、経済、教育水準ともに世界トップクラスの先進国の一つ。

ノルウェーの歴史

紀元前4世紀には北ゲルマン系のノルマン人(ノール人)がこの土地に定着し、それが、今のノルウェー人の基礎となる。 8世紀のヴァイキングの時代にはデンマーク・スウェーデンヴァイキングとともに、海外に通商、略奪、探検で進出し、アイスランド、グリーンランド、さらにシチリア、ロシア、ノルマンディーへと移住した。

10世紀の終わりにはキリスト教がもたらされたものの、古代の北方信仰(北欧神話)が根強く残る。
幾度かの戦乱の後、14世紀にノルウェー王国は衰退、カルマル同盟でデンマークの支配を受ける。

デンマークがナポレオン戦争で敗戦し、ノルウェーはスウェーデンの支配下となる。
この間に海運、製鉄、造船、漁業などの諸産業を振興していった。
1905年、スウェーデンから独立。
第二次世界大戦では、1940年にナチス・ドイツに国土を占領された。
戦後は、独立を回復。
EU非加盟国ではあるが、1913年の普通選挙導入時には女性参政権を導入、女性首相もいるなど女性の社会的地位は高く、また他の北欧諸国同様に社会福祉も進んでいる福祉国家でもある。

ざっとこんな感じかな。
次は残りの北欧諸国についてアップします。
では~
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