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北欧の歴史??その2

すいません。コメント書く前にEnter押してしまいました。アップした二つ目のはwikiのスウェーデンの歴史の切り取りです。これまたてきとうでごめんなさい。この下はフィンランドの歴史(これまたwiki)です。



フィンランドの歴史

先史時代

フィンランド人登場
最新の学説としては紀元前3000年に、この地にフィン人とサーミ人の共通の祖先が櫛目式土器文化を伴い移住して来たというものである。北ゲルマン語群との交流は既にこの頃から始まっている。しかし青銅器時代にはフィンランドから人影が極端に減少する。鉄器時代に入ると農業を営み始めたフィン人とトナカイの牧畜に特化したサーミ人(サーミ人も、マジャル人もフィノ・ウゴル族であるが共に意思の疎通は出来ない。フィンランド人とエストニア人とは今でも言葉が通じ合う)に分化し始める。サーミ人はアスベスト土器、繊維土器といった特有の文化を築いた。
民族移動時代 [編集]
ゲルマン民族の大移動は前期民族移動時代、ヴァイキング時代は後期民族移動時代と区分される。後期民族移動時代には錫製装飾品で有名な「サーミの金属舞納遺構」がある。フィン人は800年までにはスオミ族、ハミ族、カレリア族の各部族を成立させている。フィン人(フィンランド人)もサーミ人も政治的に1つにまとまって国を作る事はなく、フィン人の各部族内ですら分裂したままであった。この頃の生活は夏の農業(大麦、ライ麦)と冬の狩猟(テン、リス、ミンク)であった。後者の動物の毛皮は交易品として重用された。
属州フィンランド

北方十字軍


北方十字軍の進路。赤1150年スオミ族に対する制圧・緑1238年1239年ハミ族に対する制圧・青1293年-1294年カレリア族に対する制圧
1155年、西隣のスウェーデン人が、フィンランド人を併合し属州とした(北方十字軍)。これによって、フィンランド人にキリスト教(カトリック)がもたらされたが、スウェーデン人とノヴゴロド人(正教会)の戦争が繰り返され、その度に、フィンランド人は矢面に立たされ大きな犠牲を強いられてきた。領土の確定で一定の安定を見た後、フィンランド人の地主、僧侶、官僚たちの自治集会が成立し、スウェーデン国王選出権を与えられた。彼らはスウェーデン人に同化されたが、古き良きフィンランド人の文化は、フィンランド人の農民の間に遺された。この時代にスウェーデンから移住したスウェーデン人たちは、スウェーデン系フィンランド人と呼ばれ、19世紀初頭まで続く「スウェーデン=フィンランド」を形成した。
やがてカルマル同盟(1397年)が成立するとスウェーデン人からの圧力は減ったが、デンマーク人による重税にフィンランド人は苦しむことになる。
バルト帝国 [編集]
スウェーデン人の独立(1523年)によりデンマーク人の勢力は後退した。スウェーデン人が独立した時、フィンランド人が独立を望まずスウェーデン人の属国になることを選んだ背景には、タタールのくびきを脱したロシア人(ロシア帝国)やポーランド人(ポーランド・リトアニア連合)などの外圧から逃れる為という、止むを得ない実情があったのである。しかし、スウェーデン人がバルト帝国の建設へと邁進することは、フィンランド人にとっては、はた迷惑以外何ものでもなかったであろう。この時代に何らかの意義を見出すとすれば、「フィンランド」が拡大したことである。基本的にバルト帝国の東方国境が後の独立時のフィン・ソ国境となる。フィンランド人の兵士は、三十年戦争で勇猛さを発揮し、「ポーランド軍にはタタール人(コサック)がいる様に、スウェーデン軍にはフィン人がいる」と言われ、恐れられたと言う。
フィンランド人はスウェーデン人と共にプロテスタントに改宗したが、17世紀後半から18世紀前半にかけてフィンランド人は、相次ぐ凶作と悪疫、スウェーデン人による失政及び長き戦争のために大打撃を受ける。いわゆる「大いなる神の怒りの時代」である。棍棒戦争と呼ばれる農民一揆による内乱も起き、破滅的な打撃を受ける。しかし18世紀初頭の大北方戦争によりスウェーデン人がロシア人に屈服すると、再びロシア人の勢力がフィンランド人にまとわり着き出す事になる。18世紀後半には、ロシア人の協力を得て、フィンランド人の独立を画策する、アニアーラ事件が起きる。しかし現代のフィンランドの歴史家は、これをロシア帝国の策略とする、愚かな犯罪的反乱予備罪だったと決定付けている。しかしこれはフィンランド人のナショナリズムの現われの一端ではあった。フィンランド人はその歴史上地理的に緩衝地帯としての役割を宿命付けられて来た。中世の初頭から冷戦終結後までフィンランド人は、スウェーデン人(西方教会、パン=ゲルマン主義、資本主義)とロシア(正教会、汎スラブ主義、共産主義)との間の緩衝国であり、東西交流の窓口であった。
フィンランド大公国

ナショナリズム
1807年、ロシア皇帝アレクサンドル1世はティルジット条約においてナポレオンの対英大陸封鎖(大陸封鎖令)に参加する見返りとして、フィンランド領の獲得を承認させた。この為、1808年ロシア帝国はスウェーデン政府に宣戦布告(フィンランド戦争)、既にフィンランド人にはスウェーデン人に対する不満が渦巻いていたが、フィンランド軍は孤軍奮闘した。しかしスウェーデン軍は、ロシア軍に大敗すると算を乱して逃亡し、翌年の1809年春にフィンランドを全域を制圧した(フレデリクスハムン、ハミナの和平)。アレクサンドル1世は、フィンランド大公となり、フィンランドを立憲君主制の大公国とした。内政はフィンランド人が担当し、公用語はスウェーデン語、後に待望のフィンランド語が追加された。開明的な啓蒙君主であったロシア皇帝アレクサンドル2世の下、「自由の時代」を謳歌し、フィンランド人の民族的基礎が着々と築かれていった。今でもフィンランド人はアレクサンドル2世を敬愛しており、その銅像とちなんで名付けられたアレクサンドル通りとが有名である。しかし文化も宗教も異質なロシア人に支配される事によって初めて自らのアイデンティティの問題に直面したのである。そして民族としての独立した精神は名実共に確立し、フィンランド文化も頂点に達するのである。民族叙事詩カレワラが出版されたのは1835年のことであった。「我々はスウェーデン人には戻れない。しかしロシア人にもなれない。そうだフィンランド人でいこう(Ruotsalaisia emme enää ole, venäläisiksi emme voi tulla; meidän täytyy olla suomalaisia.) 」と謳われたのはこの頃である。1848年のヨーロッパ革命(1848年革命)の年、デンマークで絶対王政は崩壊し、民主主義が成立すると、フィンランド人の間でも学生を中心に民主化運動とナショナリズムは高まりをみせ、学祭で「我等の地」が歌い上げられる。民主主義が浸透しつつある西側、絶対王政を崩さない東側という対比の下、フィンランド人の間に北欧への復帰の世論が強まっていくことにもなった(汎スカンディナヴィア主義)。
ロシア化政策
ロシアはアレクサンドル2世が暗殺された後、次第に反動的になっていった。特に1871年に成立したドイツ帝国に動揺したロシアは、中央集権化を進めるために帝国内の各民族への統制を強めていくことになる。1894年の露仏同盟により露独関係の亀裂は決定的となり、ロシアはきたるべき対独戦争の準備のため強権化をエスカレートさせていった。こうした背景により、フィンランド人の自治は剥奪された。フィンランド語も禁止され、公用語としてロシア語が強要された。 20世紀に入るとロシア帝国内で各民族の民族意識が高まり帝国内は混乱を極めた。フィンランド人も民族意識に目ざめ、ロシアへの反発を強めて行く。そして日露戦争のさなかの1904年、フィンランド総督の暗殺という事態に至る[1]。日露戦争終了後、第一次ロシア革命が起こり、ロシア皇帝ニコライ2世はフィンランドのロシア化政策を撤回した。フィンランドは独立こそ果たせなかったが民主的な憲法を制定し、普通選挙法、女性参政権などが実現、総選挙により議院内閣制に基づく政府が発足する。選挙権拡大により、社民党が躍進した。しかし、世界は第一次世界大戦に至る緊迫感に包まれ、ロシアは再びフィンランドを弾圧し、政府は解散され憲法は停止される。自治と独立を望むフィンランド人は息の根を止められたかに見えた。
この時代、フィンランドとロシアの政治的緊張は目に見えて高まったが、経済的にはロシア帝国を輸出先としてフィンランドは経済成長を遂げた。特に西側の最新技術を元に工業化を推進し、ロシア帝国に輸出する東西貿易の窓口として国力を充実させたのである。こうした発展は、後の独立のための基盤になった。
フィンランド共和国

二度の世界大戦
第一次世界大戦では、フィンランドはロシア軍の前哨基地となったが、職業軍人を除いて参戦する義務を負わず、国力を温存させた。1917年にロシア革命によりロシア帝政が倒されると、社民党は政権を奪取し、憲法を復活させた。ケレンスキーとの暗闘の後、社民党は下野し、有産階級の諸政党の連立政権が引き継いだ。ボリシェヴィキとの交渉が成立し、フィンランド人は独立を宣言した。しかし、労働者階級はソビエト連邦への参加を求めて蜂起し、内戦に突入する。両陣営の勢力は互角であり、労働者階級は都市部とくにヘルシンキに集中していた。1918年、赤軍がヘルシンキなど南部地域を掌握したため、白軍はヴァーサへ逃れたが、ここで政府はマンネルヘイムを指揮官に任命し、ドイツ人・スウェーデン人も義勇軍を送った。白衛軍は勢力を取り戻し、タンペレの決戦で白軍が勝利した。余勢を駆って白軍はカレワラ発祥地、カレリアに出兵。この是非を巡り連立政権は王党派と共和派に分裂した。王党派(保守党、スウェーデン党)は、ドイツ帝国に接近して王国の樹立を画策、ヴィルヘルム2世の義弟ヘッセン・カッセル方伯フリードリヒ・カールを国王に選出しフィンランド王国を成立させた。しかしドイツは第一次世界大戦に敗れ、ドイツ革命によって帝政が崩壊。総選挙で共和派(農民党、自由党)と社民党が大勝すると、フィンランドは共和国としてパリ講和会議で認知された(ヨーロッパにおける民族自決)。
第二次世界大戦では、独ソ不可侵条約を締結したロシア人(ソビエト連邦)と2度に渡って戦い、その結果、カレリア地峡を失い、多額の賠償金を負った(ソ芬戦争。第1次は冬戦争、第2次は継続戦争と呼ばれる)。この時フィンランド人は、スウェーデン人に助力を求めたが、中立主義をとられ、止む無くドイツ第三帝国に接近した。この事がフィンランド人をしてパンドラの箱となった。第二次世界大戦でのドイツ人の敗北と同じくしてフィンランド人も敗戦国となり、ロシア人から戦争犯罪に問われる事になった。
冷戦と現代
ロシア人からの圧力に屈し、マーシャル・プランを拒絶せざるを得なかったが、戦後のフィンランド人は独自の努力と中立国スウェーデン人からの援助によって復興へ邁進する事となった。1952年、ヘルシンキオリンピックを開催。同年に対ソ賠償を完済し、財政的な負荷がなくなったため、急速に福祉国家建設へ邁進することとなる。外交面においては冷戦時代は、北大西洋条約機構 (NATO)にもワルシャワ条約機構にも加盟せず、中立を貫きノルディックバランスを構成する。しかし共産主義勢力のクーデター騒ぎやロシア人の度重なる内政干渉に動揺し、国内政情に不安定な要素を提供することになった。そのため、長い間対ソ批判はタブー化された。政府もロシア人の干渉を未然に防ぐために親ソとも言える様な言動を繰り返し、かくして「フィンランド化」という言葉まで生まれた。しかしそれは、フィンランド人自身の独立維持への凄まじいまでの努力の結果であった。賠償金の支払いに工業製品の代物弁済を求められたフィンランド人であったが、それが逆にフィンランド人を先進国へと脱皮させるきっかけにもなった。また、その賠償のための搬送ルートを東側への拡販ルートとして流用し、東西貿易の窓口として莫大な利益を上げることとなる。福祉国家戦略の優越性と相まって、人口1人当たりGDPは、他の北欧諸国とともに世界一になった。
その後冷戦の終わりと共に囚われの鎖から解き放たれたが、既にロシア人は最大の貿易相手国であり、経済的なパートナーとしてなくてはならない存在であった。それゆえソビエト連邦崩壊後、政治的な自由とは裏腹に経済的な苦境に見舞われた。GDPは約4割も減少し、財政赤字を増大させたのである。そのため、経済的な便益を求めて1995年にスウェーデン人と共に欧州連合に加盟した。情報通信産業に活路を見出したフィンランドは国家を挙げてIT革命に邁進し、21世紀初頭の現在、再び世界のトップグループに返り咲こうとしている。
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